みず道探訪 ~水と緑のつながりを求めて~
写真と文は加藤嘉六さん
写真・図はクリックして拡大します。
玉川上水の歴史書「上水記」(1791、寛政3年)の第4巻(絵図)にこう記されている場所が、羽村市の堂橋下流から始まる新堀開削工事のことです。
絵図
福生市教育委員会が現地に立てた看板には
「玉川上水旧堀跡」 玉川上水では、元文五年(1740)に多摩川の洪水被害を避けるための掘り替え工事が行われました。このとき廃棄された堀の遺構が玉川上水旧堀跡です。承応三年(1654)の完成から約90年が経った玉川上水では、多摩川の出水によって福生市内の一部で上水の土手がしばしば崩壊し、このままでは通水に支障が生じる恐れもありました。そのため代官上坂安左衛門のもと、上水世話役川崎平右衛門によって、三三七間(約六一三メートル)程の新しい水路が作られました。
現在、旧堀跡の片側の土手は崩壊していますが、もう片方の土手及び堀敷部分は遺構として残存しています。この堀跡は、近世中期の大規模な土木工事の遺構として、歴史的、学術的に大変貴重です。
とあります。
旧堀跡はかなり下の方にあり、本当に新堀との合流地点に水が流れていたのだろうかと不審に思い、2020年から数回に亘り現地調査をしました。その結果やはり合流地点に到達できることが分かりました。
次に示す図が上水世話役川崎平右衛門が書き残した絵図(川崎家所蔵)です。
多摩川は玉川と書かれています。また、水流は上水寄りに多く流れていたことが分かります。そして杭のように見えますが「出し」(水の勢いを弱める治水技術)が描かれていて、ここ(堤防)が出水によってしばしば崩壊したところと思われます。絵図は村上直(法政大学教授)が月刊・ふっさっ子(1976年1月1日号)に掲載したものをコピー(絵図の村名等は筆者が補記とあります)しました。
この絵図を見て私は多摩川の水の流れ方に非常に興味を持ちました。と言うのは羽村堰の手前で玉川上水に水を引き込んだ後、水は右岸へと向かいます。そしてすぐにまた、決壊箇所の旧堀に向かって2条の流れが描かれています。もしかして上総層群(関東平野の基盤)と呼ばれる固い地層の露頭(羽村堰にほど近い下流で、250万年前の地層から象の仲間の化石が出土)によって堰き止められていたのではないかと思い、羽村市郷土博物館に問い合わせしました。学芸員の回答は確実なお答えはできませんが、川の土砂の運搬・堆積の作用によって、自然堤防ができていた可能性が考えられます。とのことでした。
学芸員からは次の絵図を紹介されました。
この図で注目すべき点は「出し」と呼ばれる対岸方向に向けて水を導く装置です。堰の下斜めの大規模な装置は「一の出し」と呼ばれたそうです。またこの装置は牛枠などと呼ばれ、水の勢いを弱め、堤防が壊れるのを防ぐ治水技術としてかつては用いられていました。川崎平右衛門の絵図では杭のようにも見えますが、この「出し」を描いたものでした。
次の資料は2006年3月26日 福生市都市建設部と玉川上水遊歩道を考える会が主催した。講演 都立北多摩高校 角田清美先生の講演資料の抜粋です。
ここには(a)玉川上水開設以前、流れは左岸、右岸に2分しているが新堀橋下流で左岸に合流している。(b)玉川上水が開設された頃、左岸に強い流れがあり、堰堤からの水は数本に枝分かれしているが、新堀橋下流あたりですべて左岸に合流しているのが見られます。(c)元文5年(1740)に新堀が開設された頃、(b)と同じような流れで、右岸の流れは新堀橋あたりの下流で左岸に合流しています。(d)最近の風景、川は細くなり、左岸には氾濫平野(点々の模様)が広がり、現況を表しています。
この資料集には下の断面図もありました。
ではここから玉川上水に戻ります。
堂橋のたもとに低い遊歩道のような道があります。ここが旧堀跡で新堀との分岐点です。
左にやや上り勾配の遊歩道とフェンスが見えます。これが新堀として掘られた現在の玉川上水です。
上の写真は旧堀の堤防が決壊した場所(中央の低い樹木に覆われた部分)。左側の高い樹木は加美上水公園の木々。右側はかつて堤防を決壊させた流れがあった場所で、現在は建物が立ち並ぶ街となっている。
上の地図は福生市が現地に設置している説明書きです。黄色い部分が決壊箇所です。新堀は高い拝島段丘を上り(深く掘り)、旧堀は登山で言う「巻き道」のように高い処を避けつつ東(低い)へ流れていました。
写真は合流地点 左側の道路方向が旧堀(地図では薄いブルー)、右側の道路方向が新堀(地図では濃いブルー)です。
最後に今回お世話になった方々に熱く御礼申し上げます。
(資料提供) 東京都水道歴史館
(解説) 羽村市郷土博物館
郷土の様子を描く記憶画制作者 窪田成司さん
(現地調査) 玉川上水遊歩道を考える会 柳橋洋嘉さん、
ちむくいの会 リー智子さん