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第12回 砂川分水を玉川上水の補完水路に!1(立川〜国分寺)

みず道探訪  ~水と緑のつながりを求めて~

写真と文は加藤嘉六さん

    

写真・図はクリックして拡大します。


砂川分水とは

砂川分水は明暦3年(1657)開設の古い分水で、砂川村1村の利用でした。全長約1里余、開設当初分水口は天王寺橋下流にあったそうです。江戸末期頃には下流の榎戸、平兵衛、中藤、鈴木、下小金井につなげられ、さらに明治3年(1870)の分水改正で分水口は現在の松中橋たもとに移設され、国分寺、梶野、境の各分水ともつながれ、境分水までの右岸各分水の分水口は砂川分水口一つに統一されました。砂川分水は後に深大寺村などに延伸されましたので、深大寺用水とも呼ばれています(ワンポイントガイドより)。

提案理由

現在「玉川上水・分水網を生かした水循環都市東京連絡会」(都心の5大学、水文学の研究者、玉川上水ネットなど)が「玉川上水からの通水実現が東京水循環に与える有用性の検証」を行い、シンポジウム2017.8.19で発表しています。都心へ通水し外濠などの水質改善を図るなど素晴らしい案ですが、

3.玉川上水の区間ごとの環境整備課題として中流部では水路護岸の崩落、樹木の繁茂などが問題提起されています。小平監視所下流は300年にも及ぶ通水により土が流されたため開削当時と比べて数倍も深く広くなっている。深い水路は利用しにくいや法面に生えた樹木は通水に支障があるなどを挙げ、「見ためし通水」を東京都に働きかける動きがあります。私達は水量によってかなり法面に影響があると思われ心配しています。(因みに現在の通水量は1万5千トン境浄水場の情報)。

上図辻野五郎丸先生講演より

立川市水路網

松中橋取水口(手前砂川分水)水門の開閉は東村山浄水場の担当。水路の管理は各自治体の管理。現在の取水量については立川市も東村山浄水場も調べてはいないそうです。

 

砂川分水(深大寺用水)は松中橋たもとの右岸昭島市側から分水されています。玉川上水は武蔵野段丘の高台小平監視所を目指しますが(西中島橋付近法面高さ7~8m水道局資料)、砂川分水はこの高台を避けつつ、一段低い立川段丘を五日市街道や玉川上水に添うようにひたすら西から東に流れ下っています。現在小平市付近で水は消滅していますが、かつては梶野橋付近(梶野橋付近法面高さ3~4m水道局資料)で玉川上水から助水されていました。

 

そこで試案ですが、砂川分水の水路を利用しながら梶野橋付近まで迂回する形で流し(この間約15km)、玉川上水を流れてきた水とここで合流する。2つのコースに分けることで、小平地区の法面や樹木を改変しないで済むことと、砂川分水の水を防災や環境改善にも役立たせることが可能になるメリットがあるのではないかと思っています。

上水から取り入れられた水は遊歩道脇の水路からスタートする。堀の造りからして充分増量が可能と思える。

五日市街道沿い 残堀川を渡る砂川分水

立川市域は暗渠が多いが、砂川三番手前で開渠になり、昔日の面影を残す町並みとともに未来に残したい風景です。

 

地図参照 北西から南東にかけて立川断層(古多摩川に削られた段丘)が走っています。玉川上水の大曲がりを結ぶラインは阿豆佐味天神社あたりを通りその東側は小高くなっています。この辺りの砂川分水は暗渠ですが、深いところを流れているそうです(立川段丘から武蔵野段丘へ)。

 


五日市街道立川と国分寺の市境にある交通標識が見えるとすぐに国分寺市を流れる開渠の砂川分水南堀(南北2つの水路があるが北堀は通水されていない)が顔を出す。通過してきた立川市域はコンクリートの暗渠が多いため水量は極端に減ってはいないように見えます。

南堀は五日市街道の南側数十メートル付近の宅地を貫くように流れています。

分水沿いには道がなく街道へ迂回を繰り返しつつ先へ進みます。

 

自然の小川のようで美しい姿ですが、水量は減ってきているように見えます。

並木公民館脇には親水施設が設けられています。

鉄板の法面、上部は鉄パイプの梁で補強された水路。水があるのは良いのですが、やはり物悲しい。

堀底は湿気って見えますが、水流はありません(西武国分寺線近く)。

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