みず道探訪 ~水と緑のつながりを求めて~
写真と文は加藤嘉六さん
写真・図はクリックして拡大します。
Kodaira Town Tour MAP より抜粋
現風景。都道328号線の建設に伴い砂川分水の風景は壊れてしまった。
奥の竹やぶのあたり、約20年前の姿。
道路建設で約20年前の姿は消えてしまいました。
府中街道に向かう砂川分水の木製の梁
ビオトープ南堀の水路が直前で五日市街道の北側に出ます。15年位前には水があったそうですが、再び水を流したいものです。
柳生家(十兵衛子孫)の裏の真新しい水路。
この辺りの約20年前の姿
高杉水車跡の手前、水が下流へ行かないように堰き止められています。
高杉水車の図。上が下流、下が上流。
小金井町全図 昭和12年7月1日発行 砂川分水は茜屋橋を通る新小金井街道を西から渡るとすぐに雁行して南下しています。この状態の水路が現在も法務局の公図に表記されています。しかし現実の砂川分水は玉川上水と平行に、小平市側と同じようにまっすぐに東流しています。永年放置してきたことにより、歪な状態のままになっています。
茜屋橋下流100m位の農家の庭先に大きな「ほっこぬき」を囲んだフェンスがあります。農家のご主人によると中に階段があり、洗い場として使用していた。また子供のころ水浴びや魚取りをしたそうです。
また少し先にも小さめの「ほっこぬき」があります。
左に小金井分水水門、中央は砂川分水暗渠、正面奥は玉川上水。
島崎水車跡の砂川分水
水路は陣屋橋あたりから低地を避けるように南下や北上をしています。写真は新小金井橋に向かって北上している部分。
玉川上水に近いところを東流している砂川分水。
梶野橋近く玉川上水右岸の市道をはさんだ南側。仙川の低地に向かい低くなっています。
幕末黒船の来航により軍事力の強化を急いだ。火薬製造用の水車を動かすため、千川用水と三田用水の水量の増加が必要であった。田に使用しない冬期は全水量を玉川上水に戻した(小坂克信著「武蔵野台地南部の水利用の歴史」より抜粋)。
帰流計画図 小坂克信著「武蔵野台地南部の水利用の歴史」より抜粋。
写真の辺りは幕末砂川分水を帰流していた亀久保の近くと思われます。市道を隔てた先が玉川上水。手前のやや白い部分が砂川分水にかかる橋。
梶野橋上流辺りは砂川分水が市道をはさむだけで、玉川上水のすぐ脇を流れていました。松中橋(立川市)の取水口から玉川上水と別れる砂川分水を合流させるにはベストな場所と思っていました。そこに小坂克信先生から亀久保という地名と江戸末期に帰水されていたことの示唆を賜り、ますますこの案に自信を深めた次第です。