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第2回 坂と湧水 おとめ山~椿山荘~懸樋跡を歩く

湧水・探訪

写真と文は加藤嘉六さん

    

写真・図はクリックして拡大します。


催行日 2023年5月12日(金)

コース 高田馬場(早稲田口)→おとめ山公園→肥後細川庭園→芭蕉庵→椿山荘庭園(入園するためにル・ジャルダン利用、飲み物1500円~)→関口大洗堰跡(一次解散)、希望者は神田上水跡を歩き小石川後楽園(旧水戸藩上屋敷)→神田上水懸樋跡(解散)


神田川や石神井川、善福寺川といった山の手台地を流れる河川の水源は山の手台地にあり、よく知られていることですが、標高50mぐらいの谷頭(こくとう)に位置しています。また標高50mを過ぎると谷頭ばかりでなく谷壁の下部からも湧水が見られるようになります。今回は特に水がどこから来ているのかを注目したいと思います。

 

神田川の北側の台地(上の台地)は本郷台や豊島台と呼ばれ、武蔵野段丘面に位置します。神田川の北側斜面(左岸)、特に文京区小日向から新宿下落合にかけて連なる段丘崖は急傾斜の斜面となっています。

 

反対に、神田川南側(右岸)は緩斜面となっています。このような神田川の両岸の段丘崖の下には湧水箇所が多くみられ、小さな池と緑のある環境になっています。しかし近年は湧水量が激減しており、多くの湧水は枯渇し、池の水も循環しているケースも多い(日本地下水学会、都内湧水めぐりより抜粋)。

おとめ山公園

東京の名湧水57選に選定されています。写真は水源。湧水標高約24m

江戸時代にはこの辺り一帯を「おとめ山」と呼んでいたそうです。おとめは乙女を連想させますが、この名は将軍家の狩猟地で、立ち入り禁止の意味の「御留山」から起こったものと言われています。

 

おとめ山公園を含む一帯は大正初期から昭和初期にかけて相馬中村藩主だった相馬家が所有し邸宅を構えていました。昭和44年に新宿区立おとめ山公園として開園し、その後新宿区は公園の緑や湧水の保全拡充を図っています。

 

この水を利用し、ホタルの養殖が行われ、毎年7月にはホタルの鑑賞会が開催されています。

 

なお懸案の、湧水について私が新宿区みどり公園課に質問したところ、区としてどこから来た水か専門家に伺ったが、分からないという返事だったそうです。

 

次にここを詳しく調査研究をしている「海城中高地学部」のサイトがありましたので引用いたします。

 

地形的解説→河川の浸食によって形成された連続する崖を「崖線」と呼びますが、神田川によって形成された崖線を特に「落合崖線」と呼び、文京区まで至っています。崖線上におとめ山公園がある。これはすなわち公園内に大きな高低差があることを意味しています。

 

ではなぜ高低差が湧水を生み出すのでしょうか。こちらの図をご覧ください。

武蔵野礫層は黄緑で表されている。
武蔵野礫層は黄緑で表されている。

おとめ山公園の湧水における主な帯水層(地下水が滞留している層)は武蔵野礫層になりますが、本来これは地表面から数メートル下に存在します。

 

しかし先ほどの高低差が武蔵野礫層を露出させるのです。これが地下水が湧きだす理由です。

下の池(弁天池)
下の池(弁天池)
中の池
中の池
上の池
上の池

肥後細川庭園 ブログより

講師は日本地下水学会学会員の五藤幸晴氏

 

本地域の地形や地質の特徴を地質図からは関口・目白台地域が青梅あたりから扇状に広がる武蔵野台地のほぼ東側の先端にあたっていること、またデジタルの標高地形図では、神田川が流れる一帯に突き出た半島のような台地になっていることが見て取れました。

 

このような地形では、地層にしみ込んだ水が湧水となって出てくることが多いため、かつては文京区内にも湧水ポイントがたくさんあり、井戸として活用されていたそうです。

 

しかし残念なことに現在では街中のコンクリート化が進んで、地中に浸透する雨水が減り、水が枯れている箇所が多くなっている。

 

本園でも現在は深井戸からくみ上げた水を池に流していますが、造園当時はおそらく和敬塾(北隣旧細川侯爵邸)との境界あたりに湧き出た豊富な湧水を池に流すとともに、中池や小池では、北側にある雑木林の斜面から湧き出る湧水も活用していたのではないかとのことです(ここでも標高50m説は出てきません)。

肥後細川庭園はかつての大名肥後細川家の下屋敷の跡地に造られた庭園です。
肥後細川庭園はかつての大名肥後細川家の下屋敷の跡地に造られた庭園です。

関口芭蕉庵

俳人として有名な松尾芭蕉は1677年から3年間この地に住んでいたそうです。当時旧主筋の藤堂家が神田上水の改修工事を行っていて、芭蕉はこれに携わり、工事現場か水番屋に住んだと言われているそうです。

 

後に芭蕉を慕う人々により「龍穏庵」という家を建てましたが、これが芭蕉庵につながるそうです

湧水は約15m段差の崖下からの水が石鉢に注ぐ(環境省サイトから)。
湧水は約15m段差の崖下からの水が石鉢に注ぐ(環境省サイトから)。

東京の名湧水57選に選定されているが現在湧水はない。水~日10時~15時開園、湧水を詳しく調べたことはない(管理会社 音羽建物)。

神田川からの北側高台眺望。右に椿山荘、左の冠木門が関口芭蕉庵
神田川からの北側高台眺望。右に椿山荘、左の冠木門が関口芭蕉庵

椿山荘

江戸時代、上総久留里藩主黒田豊前守の下屋敷を明治の元勲・山県有朋氏が購入したのがはじまり、椿が多くあったことから椿山荘と呼ばれたそうです。

幽翆池とホテル
幽翆池とホテル
ほたる沢
ほたる沢
滝の裏側が順路になっていて、滝を内側から見ることが出来ます。
滝の裏側が順路になっていて、滝を内側から見ることが出来ます。
五丈滝
五丈滝

椿山荘「古香井(ここうせい)」古くから東京の名水に数えられた湧水が自噴する井戸。

 

秩父山系からの地下水が湧き出ているもので、ミネラル、カルシウム豊富に含んだ弱アルカリ性の湧水です(現地案内文より)。下の写真

神田川 川底に露出している上総層群は関東平野の基盤と言われている。

神田上水

関口大洗堰「江戸名所図会」神田上水の水と善福寺川、妙正寺川の水を大洗堰で水位を上げ、水戸屋敷へ導いた。

写真奥、神田上水取水口の石柱(移築)
写真奥、神田上水取水口の石柱(移築)

徳川家康は、江戸入城にともない上水道の整備を大久保藤五郎に命じました。

 

藤五郎は小石川(現在の後楽園のあたり)の流れを利用し、この水を小さな掘割で駿河台方面へ流しました、これが江戸の上水道の始まりで、神田上水の原型と言われています

小石川後楽園(旧水戸藩上屋敷)

庭園の風景、奥に文京区役所が見える。
庭園の風景、奥に文京区役所が見える。
古い石造りのアーチ橋「円月橋」
古い石造りのアーチ橋「円月橋」

上の泥絵は手前の川が神田川で、右手の白い塀の中が水戸藩上屋敷です。

神田上水懸樋、絵:歌川広重「東都名所 お茶之水之図」
神田上水懸樋、絵:歌川広重「東都名所 お茶之水之図」

神田川(外濠)を懸樋で渡し、神田、日本橋方面の飲み水などに利用された。